今こそ、志のある「倫理消費者」による、
買わない選択を。
今こそ、志のある「倫理消費者」による、
買わない選択を。
「情報偽装」と「隠蔽体質」の企業に原発をまかせていいのか?
不買のレファレンダムは脱原発や原発推進の立場を超えて、現在進行中の原発事業において、人の生命や安全に大きく関わる、その重大な社会的使命を帯びた企業にとっては絶対にあってはならない「情報偽装」や「隠蔽工作」が、経営トップによる指示により、組織ぐるみで行なわれている企業体質や風土に対するものです。一方で、一般従業員には責任はないのではないかという議論も当然ありますが、過去の「東芝クレーマー事件」などは氷山の一角で、現実のマーケットの現場においても、大企業のエリート意識による徹底した「顧客軽視」、「株主軽視」、「社会軽視」の対応が日常的に行なわれており、決して経営層だけの問題ではなく、組織全体の企業風土として「はめあい」という穴と軸が互いにはまりあう関係が膠着化していると言えます。今回の粉飾決算においても、内部の不都合をみんなで隠す日本の組織の特徴がよく出ており、原発の運用ではもっともやってはいけない行動だと言えます。内部の人間とも襟を正し、正しく向き合うことのできない組織の運営する原発は技術的問題とは別に危険極まりないと言え、日本の国民は命と安全の問題に関して大きなリスクを抱えることになります。金融当局は水面下で、取材記者たちに、「財界団体のトップの大企業がこの程度の粉飾決算で経営危機に陥るわけがない」と吹き込み、問題の矮小化を図っていると言われるように、当事者やその周辺関係者においても事態の深刻さや危機感が全く伝わってこないのが現状です。こんなことでは、傷付いた証券市場や企業のガバナンスに対する信頼回復など期待できるはずもありません。そして何よりも、このような企業に、国民の命と安全に関わる原発推進事業などに参画させることなど、絶対にあってはならないのではないでしょうか。
レファレンダムー「争わない、衝突しない、対決しない。」ーひたすら買わない運動。
東芝という「日本にとってよくない」企業に対しては、どんなに時間がかかっても市場からのイジェクト=退出を求めていく覚悟が必要になります。元来、日本人の国民性は「熱しやすく、冷めやすい。」と言われ、今までにおいても、様々に社会を騒がせた「巨悪」と言われる企業犯罪についても、マスコミメディアにとって、東芝のような大企業の広告クライアントに対する追求には、おのずと限界があり、東芝クレーマー事件などにおいても喉もと過ぎればその学習を怠り、その緊張感のなさはいつまでたっても変わることがありません。今こそ、ターゲットをピンポイントに焦点化し、TOSHIBAブランドの商品を市場から退場させることにより、多くの企業に対する「レッスン効果」を生み出し、企業全体に消費行動の「スペンドシフト」を認識させることが重要です。検察をはじめマスコミは、企業規模が大きいことによる社会的影響を考慮し、本来自らが成すべき責務が果たせず、このままでは今までのように問題の本質は闇に葬られ、今後も同じようなことが繰り返され、社会全体の志気は下がり、新たに発生する問題が万が一にも、原発の運営に関わる重大な局面を迎えることになっても、その時にはもう後の祭りです。この国民の不買レファレンダム=直接投票は10年20年、場合によっては30年以上かかるかもわかりませんが、未来の子供達のためにも、問題企業にはその責任に応じた社会的制裁を受け、悪いことをすれば、国民や消費者から「懲らしめられる」状況を政府や行政だのみではなく、国民自身の力により構築しなければならない局面にきているのではないでしょうか。これからは、国民が直接目指すべき社会を作っていくのが合理的です。こうした運動は「争わない、衝突しない、対決しない」を理念とし、企業やマスコミメディアに対しても強圧的なアプローチは行なわず、売り場での購買時点における意思表明だけです。ただ、購買行動においてその理由の合理的な説明を行い、ひたすら「買わない」だけなのです。
日本経済の悲惨な顛末、パナソニック・リスク。
企業活動の最終目的が規模の膨張でしかなく、Made in Japanのモノづくりを忘れた際限のない膨張主義の敗北が、あたかも円高=悪という「気」を生み出し、 政府のアベノミクスという劇薬の金融政策の介入を許してしまいました。 このまま規制緩和や成長戦略が実行できなければ、インフレからバブル、ひいては国債の暴落が待っています。日本経済のその悲惨な顛末はパナソニックリスクとしてリーマンショックと並び称され、アベノミクスとともに後世まで語り継がれることになります。
他社と比べ故障比率も圧倒的に高く、メンテナンスやサービス対応においてもユーザーを軽視しているとしか思えないサービス対応やリコール情報の隠蔽など全く図体はでかいが中身が伴わず、おおよそ企業のていをなしてるとはおもえません。一言で言えばモノづくりに対する基本的理念や仕事に対する誇りなど一番大切なコアが欠如してということに尽きます。そのため企業活動の最終目的が数字や規模の膨張しかなく、ゲーム感覚のような子会社の吸収や売却、人員のリストラなどはそうした考え方の延長線上にあるも当然かもしれません。現在、創業以来の企業存亡の危機にあるのは、決して円高などが主要な要因ではなく、創業時の精神を忘れひたすらキャッシュフローによる膨張 による自らが招いた当然の結果である。エリート意識が強い反面マナー意識が希薄で地元地域と共生できず不遜なプライド主義により、地域社会に多大な迷惑をかけ、顧客に対しては命にかかわる重大な情報の隠蔽や徹底したユーザー軽視の対応ぶり、そして、社会に対しては円高=悪という気を起こさせ、政府による円安誘導というたいへん大きなリスクを孕んだ経済政策を許してしまいました。
こんな企業、
ほんとうに社会に必要なのだろうか?
消費者は購買力を投票権のように使うことで、今後一層、企業に対しては「日本社会にとって必要かどうか?」を念頭に企業の選択と集中を推進していかねばなりません。消費者による企業に対するレファレンダム=直接投票がおおいに期待されるところです。
国民や消費者はいつまでも企業にとって都合のいい存在ではなく、「いいかげん、いつまでもなめてもらっては困る」ということを示さなくてはなりません。消費者は商品の購買を投票権のように使うことで、企業の「選択」と「集中」を推進していかねばなりません。マスコミメディアにとって大手企業は重要な広告クライアントでもあり、その追求にはどうしても限界があり、これからの消費者は自らの利益だけではなく、社会関係性から企業を厳しくチェックし、問題のある企業に対しては強い意思を持って堂々と「不買運動」を展開し、市場から「イジェクト」=退出させていく購買の「レファレンダム」を実行する役割を果たしていく責任があります。反対に企業活動における消費性向や市場動向などの一時的な判断の見誤りによる企業経営の苦境などに対しては、積極的な購買行動による企業支援が必要になります。モノづくりにおいては、ワインと同様に豊作ビンテージの年もあれば不作の年もあり、一貫した製品思想を持ち、環境主義や社会貢献に積極的な企業に関しては、個々の製品における機能や価格、デザインに一喜一憂することなく、企業に対するロイヤリティを示すことにより、長期的な視点に立った良好なパートナーシップを目指すべきであると言えます。「いいモノづりができないと、いい社会ができない。いい社会ができないと、いいモノづくりができない。」と言われるように、サービスや価格の厳しい過当競争により企業の疲弊が限界にきているのであれば、消費者や市場社会に提供するモノとサービスの在り方や関係性を見直していくことにより、いいモノづくりといい社会づくりに向けて、企業と消費者の新しい恊働関係を構築していくべきではないでしょうか。